モロッコ南東部、サハラ砂漠の果てに広がるケムケム層(Kem Kem Group)。
真紅の岩肌が続くこの大地の下には、1億年前の“川の王国”が眠っている。
そこでは魚が群れ、ワニの祖先が潜み、巨大な捕食者たちが水辺を支配していた。
そんな生態系の中に、ひときわ異質な存在がいた。
その名は――シギルマッササウルス(Sigilmassasaurus)。
発見されたのは、奇妙な形をした頸椎。
短く、がっしりとしたその骨は、従来の肉食恐竜とはまったく違っていた。
スピノサウルスに似ているようで、しかしどこか違う。
それはまるで、同じ血を引きながらも異なる運命を歩んだ“もうひとつのスピノサウルス”だった。
シギルマッササウルスの基本情報と特徴
| 属名 | Sigilmassasaurus |
| 種名(種小名) | S. brevicollis |
| 分類 | 獣脚類 > テタヌラ類 > スピノサウルス上科(スピノサウルス科?) |
| 生息時代 | 白亜紀後期(約1億年前〜9,400万年前) |
| 体長(推定) | 約10メートル前後(推定に幅あり) |
| 体重(推定) | 数トン規模(標本不足により未確定) |
| 生息地 | アフリカ大陸北部・モロッコ東部ケムケム地域 |
| 食性 | 肉食(魚食・水辺の獲物を含むと推定) |
「シギルマッササウルス」という名は、“シジルマッサ(Sijilmassa)のトカゲ”を意味します。
スピノサウルス類に近い仲間と考えられており、特に首の骨――頸椎――が極端に短く、横幅の広い独特な形をしています。
この形状から、首に強力な筋肉が発達していたことが示唆され、水辺で獲物を引き上げるような動作が得意だった可能性があります。
現在の研究でも、その分類は議論の最中で、独立した属なのか、それともスピノサウルスの一部なのかという論争が続いています。
発見の歴史と学名の由来
|謎多きモロッコの肉食恐竜【恐竜図鑑】-4-1024x559.webp)
シギルマッササウルスは、1996年、ドイツの古生物学者 エーベルハルト・フライ(Eberhard Frey) によって記載されました。
化石はモロッコ南東部のタフリート近郊、古代都市シジルマッサ(Sijilmassa)に由来する地層から発見され、
その名の通り「シジルマッサのトカゲ(Sigilmassasaurus)」と命名されました。
最初に見つかったのは、首の後方部分の頸椎。
それは驚くほど短く、前後方向よりも横幅が広いという奇妙な形をしていました。
この“短い首の骨”を表すラテン語「brevicollis(短い首)」が、種小名として付けられています。
その後の研究では、この恐竜の骨がスピノサウルスの一部ではないかという説が浮上。
特に2020年、スミスらによる論文(Smyth et al., Cretaceous Research, 2020)では、「シギルマッササウルスはスピノサウルスの一部であり、独立属ではない」と再解釈されました。
一方で、Eversら(2015, PeerJ)は独立属として有効であると主張しており、現在も研究者の意見は分かれています。
つまり、シギルマッササウルスは「実在する恐竜」でもあり、「再構成中の仮説」でもある。
その曖昧な存在こそが、古生物学のロマンを象徴しているのです。
H2:発見場所:モロッコ・ケムケム地域
シギルマッササウルスが発見されたのは、モロッコ南東部の「ケムケム層(Kem Kem Group)」と呼ばれる地層です。
この地域はアルジェリアとの国境近くに位置し、現在は乾いた砂漠が広がっていますが、約1億年前の白亜紀には豊かな川が流れる湿地帯でした。
ケムケム層は恐竜だけでなく、巨大な淡水魚(オンコプリスなど)やワニ類、翼竜、さらには海洋生物まで見つかる“化石の宝庫”です。
地層の赤みは鉄分を多く含むことによるもので、その色はまるで、太古の血潮が今も砂に染みこんでいるかのよう。
この地からはスピノサウルスやカルカロドントサウルスなど、複数の大型肉食恐竜が発見されており、研究者の間では「捕食者が多すぎる生態系」としても有名です。
シギルマッササウルスは、その複雑な生態系の中で独自のポジションを占めていたと考えられています。
シギルマッササウルスの骨格が語る「短い首」の秘密
|謎多きモロッコの肉食恐竜【恐竜図鑑】-3-1024x559.webp)
シギルマッササウルスを語るうえで、最も象徴的なのが“短い首”です。
彼が初めて学界に登場したとき、研究者たちはその奇妙な頸椎(けいつい)を見て驚きました。
通常、肉食恐竜――たとえばティラノサウルスやアロサウルス――の首の骨は細長く、柔軟な動きを支える構造になっています。
しかしシギルマッササウルスの頸椎は、前後方向が極端に短く、横幅が広い。
さらに、椎骨の神経棘(背中の突起)が厚く、筋肉の付着面が発達していました。
この構造から考えられるのは、「首の力を使って獲物を引き寄せる」「重い獲物を持ち上げる」動作に特化した構造であった可能性です。
つまり、俊敏さではなく“力強さ”を重視した首。
近年のCT解析(Evers et al., 2015, PeerJ)によれば、頸椎の関節面は垂直方向の圧力に強く、水辺で魚や小型獣をくわえて持ち上げるような動作を支えていたことが示唆されています。
これはまさに、同時代に生きたスピノサウルスの“魚食性”に通じる特徴です。
その一方で、この独特の骨格が“短い首のスピノサウルス”と誤認される原因にもなりました。
つまり、シギルマッササウルスの首の形状こそが、彼を“独立した属”とみなすのか、“スピノサウルスの一部”とするのか――
その論争の発端になったのです。
シギルマッササウルスとスピノサウルスの関係
|謎多きモロッコの肉食恐竜【恐竜図鑑】-2-1024x559.webp)
シギルマッササウルスの分類をめぐっては、いまも世界中の研究者が議論を続けています。
1990年代には独立した属として扱われていましたが、2010年代に入ると「スピノサウルスの骨の一部ではないか?」という新説が登場。
同じケムケム層から発見されたスピノサウルスの骨格と比較した結果、頸椎の形態・サイズ・年代がほぼ一致していたのです。
2020年の論文(Smyth et al., Cretaceous Research)では、「シギルマッササウルスはスピノサウルスの頸部要素であり、別属ではない」と結論づけられました。
つまり、両者は同じ動物を異なる名前で呼んでいた可能性があるというのです。
一方で、Eversら(2015, PeerJ)は、椎骨の形状・関節構造の差異を根拠に“独立属”とする立場を取っています。
彼らは「シギルマッササウルスの頸椎は、スピノサウルスよりも後方(体幹寄り)に位置する可能性が高い」とし、進化的に近縁ながらも別種であった可能性を指摘しました。
この議論は単なる名前の違いではありません。
どちらの説が正しいかによって、スピノサウルス類の体の構造、進化、そして生態の再構築が大きく変わるのです。
もし同一種であれば、スピノサウルスの体はこれまで考えられていたよりもさらに頑丈で、水辺での活動に適した構造を持っていたことになります。
逆に別属であれば、白亜紀のモロッコには“似て非なる水辺のハンター”が複数存在したという驚くべき事実が浮かび上がります。
いずれにしても、シギルマッササウルスの研究は“未完のスピノサウルス像”を描き直す鍵。
砂漠の奥に眠るその骨が、まだ誰も知らない進化の物語を秘めているのです。
FAQ(よくある質問)
まとめ ― 砂の奥で眠る「もうひとつのスピノサウルス伝説」
1億年前のアフリカ。
川の流れが光を反射し、魚が跳ね、巨大な影が水辺を歩く――。
その景色の中に、シギルマッササウルスの姿があった。
彼は、スピノサウルスと同じ水辺の王国を生きた捕食者。
けれども、首の骨というわずかな違いが、彼を「もうひとつの存在」として際立たせた。
短い首、強い筋肉、そして静かな力。
それは、俊敏さよりも“重力に抗う力”を選んだ恐竜の進化の証だったのかもしれません。
いまもモロッコの赤い砂の下には、無数の断片が眠っています。
その中に、まだ見ぬ「真のスピノサウルス」――あるいは「失われたシギルマッササウルス」の答えが隠れているのかもしれません。
そして、僕たちがそれを掘り起こすたび、1億年前の世界が、ほんの少しだけ息を吹き返すのです。
参考文献・情報ソース
Evers, S. W. et al. (2015). “A reappraisal of the morphology and systematic position of the theropod dinosaur Sigilmassasaurus from the ‘middle’ Cretaceous of Morocco.” PeerJ. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4614847/
Smyth, R. S. H., Ibrahim, N., & Martill, D. M. (2020). “Sigilmassasaurus is Spinosaurus: a reappraisal of African spinosaurines.” Cretaceous Research. https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0195667120302068
Ibrahim, N. et al. (2020). “Geology and paleontology of the Upper Cretaceous Kem Kem Group of eastern Morocco.” ZooKeys. https://zookeys.pensoft.net/article/47517/

|謎多きモロッコの肉食恐竜【恐竜図鑑】-1.webp)